Twitterスペース「喫話 茶淹人」文字録(3)

由璋の素に接した人たちの話
 
人を信じず、心を開かず、自分の血を呪いながら、王に恋をして死んでいった由璋ですが、妻の青霞は、彼の素の姿を見た者のひとり。
王とは全く違う、王が見ることのできなかった一面を、誰より深く知っていた人物と言えます。
由璋自身が思う自分の素とは、王に見せた子供のように可愛くて危うい姿と、青霞が知る悪魔のような顔、どちらなんだろうと思う時があります。前者を引き出すことも、後者を受け入れることも、容易ではありません。

他には、由璋が暦の編纂事業を仕切らせていた暦学者がいます。
この人は、青霞の父親と同じで、由璋の兄が皇帝に即位した時に罷免され、由璋の代で復職した文官のひとりです。年の頃は初老。異国の宗教の洗礼を受けており、他国の文化や技術に明るい人物でした。この人は由璋が死ぬ半年ほど前に病で亡くなっています。他の家臣には明かすことのなかった、皇帝になってしまった苦悩を、少しだけ話した相手でした。
由璋は、兄に斬り付けられ投獄された時に、子供の頃から自分の周りにいた信頼できる近臣の多くを失っています。賄賂を拒んで処刑された由璋の側近は、生きていたら、この暦学者くらいの年齢でした。

もうひとり。この話題をリクエストくださった方が、月琴を弾く宦官の話が好き、と仰ってくださいました。彼にもちゃんと設定があります。

皇帝を早朝に起こす係だったこの人、由璋にはそのまんま「月琴」と呼ばれていました。由璋の晩年に現れた若い新人宦官です。月琴はかつて、悪い賭け事に負けて去勢されるという不運、と言うか自業自得と言うか…そうして絶望を味わったのち、自ら望んで宦官となって朝廷に入りました。傾き今にも倒れそうな城にわざわざ入っていったのには理由があり、実は彼は、皇帝になる前の由璋が諸侯として治めていた山地、當塞(とうさい)の出身なのです。
月琴は昔、故郷で穏やかだった頃の由璋と接したことがあり、理不尽で冷徹、残酷な目の前の皇帝に、人の心があることを知っていた。たったそれだけの縁に身を任せた月琴は、破壊者へと変わり果てた由璋に最期まで付き従います。彼もまた、死に場所を求めていたのかも知れません。

青霞も暦学者も月琴も、由璋の素を知る人間は、彼の為に助力して、みな死んで。でも王は、由璋のために何もできなかった。
そばにいて、共に眠って、そして、亡骸を見た。それが、由璋が王に望んだ役目だったのですね。
王は由璋の死の実感をただひとり、背負って生き続けました。

百華について
 
百華は、王が生まれる直前に「王(おう)を守れ」と天啓を受けたのですが、それまでは何の役に立つのかよくわからない能力(鳥類の使役)を持て余して、時には天啓を持つ他の者たちを羨み妬み、目的もなく日々つまらなく生きていた山霊でした。
この頃に、同じく天啓を持たない冥と少し交流がありました。つるんでいたわけではないです。百華は不器用で気が利かないので勘違いされやすいけれど、不良ではありません。

王(おう)を守れとはどういうことなのかというと、王は暴力を持たない存在なので、他人の力がないと自衛すらできないから、なのです。
山霊、特に名叢は、正当防衛と認められない暴力は禁忌です。それを破れば、跳ね返りがあるとされています。病と死です。こういうケースがない限り、名叢は病気にかかることはありません。彼らの病は天からの罰です。王の最初の死も人間でいう心因の突然死で、これは力を私物化した罰でした。

王は他人の命を救うことができる能力を持つため、正当防衛すらできない、してはいけないという理不尽な運命にあります。その救済策が百華です。
百華が王の為に暴力を振るえば、いつか病にかかる。しかし大人になった王が、必ずその死から百華を救う。この構図を、百華は始めから知っていました。

王の能力は山賊の金稼ぎの標的になり、幼体期には何度か誘拐されています。時には命懸けで自分を守ってくれる者の姿を間近で見て、慕わない筈がありません。王はただただ純粋に、百華を好きになってしまうのでした。
王からラブを向けられたのは想定外で、しかも気の利いたケアなどできるタチではないので、王の恋愛への憧れは拗れるいっぽうでしたが、百華的には、主従関係は良好です。

しかし百華は、後に王の苦悩を知ってしまいます。
王は言いました。「誰も己を見ていない、皆、見たいものを見ているだけだ」と。百華は王のことを、自分に名誉をもたらし、いつか命を救ってくれる聖者として見ていた自分に気付いてしまう。誰より大きな天啓を受けた名誉と見栄。この天啓にリスクがあっても、尽くしていればこの子は絶対に俺を助ける。俺は何も失わない。王(おう)は運命の子供。百華はいつの間にか、そんなふうに考えてしまっていたのですね。王はそれを感じ取っていました。

同時期に、王はとある人間の病を治すことができず、死なせてしまいます。そこから色々あり…ちょっとした事件に発展し、王は人間に対して心を閉ざすようになってしまいます。これは、時系列表の左下のほうにある「孫家」、という表記に関わりがあるお話なのですが、詳細はまた別の機会に。
そうして、苦難に打ちひしがれる王を目の当たりにした百華は、この子供の、個としての存在を守ることができるのは自分しかいない、自分が守らなければ、と、心に固く誓います。この決意が、長い刻を経て百華の病死に繋がっていくのです。

百華の体に病の兆候が現れた時、王はその原因にすぐ気が付きました。必ず助けると勇む王でしたが、百華は死が訪れる前に山を去ると言います。王の能力は、今際の際にしか発動しません。自分の死を見せないことで、王に能力を使わせないようにするためでした。
自分が愛したのは、王(おう)ではなく、その美しい力でもなく、ウアンというただの子供だったのだと、死に様で証明したかったのです。王にとってはあまりに身勝手な話です。しかし百華はもう、自分の生涯をかけて王に尽くしたからと、最後に我を通しました。
百華のこの死に方は、結局、王を「苦しみを受け止めさせる偶像」に戻してしまったのかも知れません。しかし百華はただ真っ直ぐに、王を愛しただけでした。不器用で、伝えられるだけの言葉を持たなかった。それだけです。

王は幼少の頃から、反抗的になった時も、大人になってからもずっと、百華の愛を当たり前のものとして、いつまでも求め続けました。こんなにも恐れず、増長した態度で愛を乞うた相手は百華だけだったでしょう。どんなに王に尽くしても、愛情をかけても、「足りない」という顔をされ続けた百華の人生は、とても幸せだったと思います。

百華は、王の元を去り、先に山を降りて人間と共に暮らしていた銀果を頼ります。
そこで最期を迎えた百華が残した種(名叢が体内に持つ核のようなもの。丹田の位置にある)は、銀果の手によって王のいる正山(ラプサン)に届けられ、王が土に埋め、大地に還しました。
名叢の人型としての寿命は150年ほどと、そんなに長いわけではありませんが、その核である種が土に還った時、木の命、樹命が始まります。命の形を変えて、彼らは長い時をその姿で生きていきます。

王は、後に妃の種も埋めているし、銀果の死も看取っています。幾つもの死の実感を背負い続ける運命なのですね。

王が自分自身の種を託すのは、茉莉花と龍珠です。その種を彼女達はどうするのか。それが、茶淹人という物語の終着点です。