Twitterスペース「喫話 茶淹人」文字録(4)

 

由璋のデザインについて
由璋のキャラデザは、王(ウアン)ありきです。
王と対になるように、王とあまり似たところがないように、デザインが被らないように。まず意識した点はそこです。なので、私が王を手癖で作ったのとは対照的に、由璋はあえてのデザインな部分が多く、描き慣れるまで苦労しました。
こだわって差別化した王と由璋ですが、同じ目線の高さで見つめ合って欲しくて、身長だけはあえて、ふたりとも170cmにしています。
由璋には独特の魅力が生まれたと思います。一番言われたのは、切り揃えた毛束になっているもみあげです。これから私がどれだけ多くのキャラクターを生み出したとしても、二度と使い回さないデザインです。
由璋の顔面の作画の、目の下のところが黒いのは、寝不足だったり、虚弱そうなイメージを付けるための記号です。また、鼻筋の部分に入れている縦線にも意味があります。あれは、肌が乾燥気味で、鼻のところがカサカサしていて皺が寄っているようなイメージの記号です。自己満足の域なので伝わらなくて良いのですが。
絵で表現するのは難しいけど、文章なら説明したい部分、肌質や体臭や体温の高さ、そういうところを深掘りしてデザインに反映させるのが好きです。

由璋を描く時のルールはやはり、衣装や装飾品に凝ることです。逆に、他のキャラクターの服には細かい柄をあまり入れないようにしています。指輪をしているキャラクターも、彼以外には極力作らないようにしています。由璋の指輪は重要なアイテムのひとつなので、印象付けのためです。
由璋は性格や嗜好からすればアクセサリーに興味がないと思うのですが、そういう人が仕方なく付けている首飾りや指輪は、枷に見えます。それが美しいほどに虚しいです。
装飾品の多さはしがらみの多さで、王にも言えることです。王は生きた年月が長いほどアクセサリーを手放していきます。でも由璋には、枷を壊してもなお生きる自分の姿は、想像できませんでした。

外見のデザインの話からは逸れてしまうのですが、キャラクターを作る時に悩むのが一人称です。
王の、「己」と書いて「おれ」と読ませる変則的な一人称がどうして生まれたかは、王は見た目が子供で、中身は生きた年月からすれば老人なわけですが、「わし」という一人称を絶対に使いたくなかった。しかし普通に俺や僕は嫌だった、という、理由です。由璋が中国皇帝お馴染みの一人称「朕」を使わないのも、私の好みの問題です。彼の普段の一人称は「私」で、王の前でのみ「僕」を使いますが、私は公私で一人称を使い分ける男性が好きで、そういうひとの言う「私」が好きなんです。由璋の二面性を表すことにも役立っています。

CHAild世界の四季、CHAildでえがきたい四季の景色について
王の生まれ故郷、正山(ラプサン)。
亜熱帯気候で、朝霧が美しく、温かい雨がよく降ります。四季の移ろいはあれど、一年を通して温暖湿潤な恵まれた土地です。

この正山は、中国の福建省に実在するお茶の産地、武夷山がモデルになっています。水墨画のような素晴らしい景観の山です。
冥と美鷂の漫画に描いた、水簾洞という、滝のある場所があります。そこは過去に西遊記の撮影場所になったそうです。孫悟空が故郷で美猴王と呼ばれていた時代、その故郷のイメージに合う、風光明媚な場所として選ばれたのだそうです。

由璋が暮らした都。
ここは正山より北に位置します。四季が明確で、春は砂埃が立ち、夏は高温多湿、秋には夕立があり、冬は寒くて非常に乾燥し、雪も少し降ります。
王と由璋の交流のほとんどは都が舞台で、ふたりは春に出逢い、次の春が来る頃に、由璋の死というかたちで別れが訪れます。花が咲き、枯れて、冬が訪れる頃には、ふたりの関係にも徐々に終わりの予感が漂い始める。由璋にとって冬の寒さは、過去の不自由な幽閉生活を思い出させ、あらゆる負の感情に結びつくものです。

王の肉体は人に見えても擬態であり、本質は植物なので、四季の移ろいに本能的に反応してしまいます。春の芽吹きにソワソワしたり、ウズウズしたり、わけもない全能感に高揚したり。冬に活動力が落ちることよりも、春の力に翻弄されることのほうが、不快だったりします。由璋が恐れた冬を、王はひとりきりで越えて、どんなにかなしくても、目の前に広がる美しい春の芽吹きと、それにあらがえず高揚する心がある。そのままならなさは、王にとってさぞや暴力的だったろうと思います。
そんなイメージで、四季の移ろいは心理描写に重ねやすいです。

寿眉が住む草原と砂漠地帯。
ここが一番気候は厳しいです。雨がとても少なく、冬は長く、極寒です。ゆえに干し肉や硬いチーズなどの保存食を多用し、食文化が全く違います。

王が寿眉と出逢うのは、故郷の正山を出て、自分を縛り付ける動く布・大紅袍(ダーホンパオ)を上手く御すこともできず、あてもなくただ生きているだけの時代です。そういう辛い時期の王を気候の厳しい環境に置くのはやはり、心理描写のひとつです。

そんな中、ひとりでたくましく生きている少女がいる。それが光の役割をしています。ただ、寿眉は、茉莉花のように底抜けに明るくて、肉体も精神もタフで、それだけで王をあたたかい場所に導いてしまうような子ではありません。精神的にはまだまだ未熟で、迷いがあって、それなのに、困ってる人を放っておけないタイプ。力不足なんです。なので、王が寿眉に引っ張ってもらうかと思いきや、逆に、守るべきものを得て、王は寿眉のために立ち上がらざるを得ない、という構図になっています。

そしてまりろんの時代。
まりろんが住んでいた繁華街は都に近いので、気候は由璋のところで説明した感じと大体同じです。まりろん編は、四季の描写と言うよりは、文明の進化を描きたい思いがあります。ろうそくがランタンになり、開襟シャツのような近代的な服装が出てきたり、茉莉花が自転車に乗っていたり。お茶を飲むために使う道具や茶器も、カレンダーの読み方も、変わっている。

まりろん編と地続きの章で、舞台が都、そして王の故郷である正山へとうつっていくのが最後の紅衣編ですが、こちらでは四季の表現を丁寧にやっていきたいと思っています。ウアンが故郷の山を出て、長い年月をかけて都へ近づいて行く中で、失った由璋の記憶を手繰り寄せる手助けになるのが、さまざまな四季の形・香りへの既視感です。砂埃を立てる強い風や、冷たい雨、乾いた空気、崩れた牡丹の花。故郷で生きていただけでは知らないはずのそれらが、王を由璋のもとへと導く。そういう意味では、CHAildの四季は、正山と都の土地柄の対比が全てと言えるほどです。