散文/青霞の日記

青霞とその生母の会話

「このような僻地に封じられてはいるが…陛下のお世継ぎが夭折した今、當王 (とうおう)は必ずや次の皇帝になるお方。現政の腐敗振りには目も当てられぬ。斃(たお)されるのも遠くない話です。」

「母上、そのようなこと…」

「青霞(せいか)、よく聞きなさい。哀れな話だが、當王は即位しても長くは生きない体でしょう。お前は一刻も早く男児を産むのです。さすれば太后(たいこう)…安泰と云うもの。」

「……」

「當王は幽閉生活が長く気難しいと噂であったが、やはりお前の美しさには絆された。」

「……違う。…お可哀想な方なのです。私(わたくし)をあてがわれた事も、子を成す事も、勤めだと思っておられる。ただただ、真面目な方なのです。當王様は…このままここで静かに、書を嗜み少しの酒を楽しみ、美しい山々を眺めて暮らされた方がいい。都になどお戻りになられない方がいいんです。」

「何を言うのです?當王は現政を最も恨んでいるひとり。彼には覇王たる野心がある筈なのだ。その火に連なれば、お前は天下の母になれるのですよ。」

「違う、違う…あの方に覇王たる野心などありません…あの方を皇帝に祭り上げてはだめなのです!」

「青霞、何を怯える?」

「…わからない、でも、當王様の眼の中には…得体の知れぬ何かが棲んでいるのです。」

「それが秘めた野心であろう。陛下への憎しみとも言える。」

「そんなものじゃない…あれを醒まさせてはいけない。そうなったら、私に出来ることなど何もないわ…」

 

(皇帝になる前の由璋は、牢から出された後、都から遠い場所に當王として封じられていた。奥さんの青霞とはその頃に結婚している。)


 

青霞の日記

陛下は自分の命を救った異国の男をいたく気に入ったご様子だった。

次に会ったらあいつに大紅袍(ダーホンパオ)をやるのだと、いつになく饒舌だった。

笑ったお顔を見たのはいつ振りだろうか。

當塞(とうさい)で公主を産んだ時、労ってくださった時は笑っておられた。

 

どうやら異国の者ではないようだ。

この国の遠い山に棲む、私たちとは別の暮らしをする種族の、王(おう)なのだと、“治療”に立ち合った官吏(かんり)が申した。

陛下は頑なに名を伏せ、悪戯に近付く奴は斬ると、仰った。

何せ名がわからぬので、皆はその者を大紅袍と呼び始めた。

 

陛下は穏やかになられたように思う。

しかし、大紅袍は未だに城に住まうことを拒んでいるようである。

意のままにならぬその者を斬ってしまわれないとは、陛下はこころより、恩義を感じておられるのであろう。

 

稀代の悪政を敷いた先帝からの負債を一手に背負い、陛下はこれまで尽くされて来た。

税を軽くし、自らは倹約に努められ、改暦にも熱心である。それでも反乱軍は北上している。

先帝への恨みの刃まで、陛下に受け止めよというのか。

 

陛下が私の茶器を借りたいと仰るので、昔に使い込んだ、艶の一等美しい紫砂(しさ)の茶壺をお渡しした。

 

陛下は大紅袍の話ばかりだが、近頃は閨(ねや)での所作も、昔のようにお優しい。

私が早く男児を身篭れば、陛下の苦しみもひとつ消えようか。

 

陛下はこのひと月で四人を斬り、二人を罷免なされた。

少しずつ、何かが狂い始めている。

當塞にいた頃に感じた恐れが、確信に変わりつつある。

あのお方は、この王朝を自ら滅ぼそうと決めたのではないか。

 

昔から「心にもないことを言うな」とは、陛下の口癖のような返しであるが、広間の掛け軸を新しくされた時、良い書だと思ったので素直にお伝えしたところ「昔から書は私よりそなたのほうが上手いよ」と申された。

顔色が宜しいですね、と言えば「寝酒をほどほどにして、あいつからもらった茶を飲んでから床に入ると、腑が優しく温まって眠れる時がある」と。

“きたん”という茶。聞いたことがない。大紅袍はよほど優れた腕のお医者なのであろうか。

 

陛下の御渡りがすっかり途絶えた。

私が叙氏(じょし)について口を挟んだことを、疎ましく思われたのであろう。

しかし、彼を誅殺したことは愚かとしか言いようがない。

 

大紅袍に会った。

暗がりでもわかるほどの美しい男であった。

しかし、陛下は若く見目麗しい宦官にも興味を持たれない方。あの大紅袍には、何があるというのだろう。

私は斬られるのだろうか。

しかし、このままではいずれ皆死ぬのだ。

 

今日の陛下は一段と気が立っておられた。

大紅袍は何をしているのか。あれは徒労だったか。

あの者はなにゆえに、紅衣を纏っていながら、陛下のそばちかくに仕えないのか。この国のどこかの王(おう)であるならば、陛下に尽くすのが勤めなはずだ。

あれだけ求められながらそれを無下にし、陛下のお心を乱すならば、いっそ斬られてしまえばいい。

 

だれかのせいにするなど私こそ愚かである。私には何もできない。

こうなるとわかっていた。

しかし、娘たちが哀れでならない。

 

大紅袍の姿を見たという噂はついぞ聞かなくなった。陥落の近いこの都にはもう、恐れをなして近寄らぬか。

しかし、あのお方が、そのような浅ましい者をそばに置きたがるわけがない。

信じるに足る何かがあったから、あの者は陛下の大紅袍だったのだ。

あの者をここから遠ざけたのやもしれぬ。生かすため。

私たちは死ぬさだめだ。

 

もう少し、大紅袍と話してみたかった。

城の皆が、あの者に縋りたい気持ちを持っていた。

何がいけなかったのだろう。どうすれば良かったのだろう。

答えなど持っていなくとも。全てを憎んだ陛下がただひとり信じた者を、知りたかった。

いまさら、無意味か。

 

陛下を恨みはしない。

花咲き乱るる當塞の春が懐かしい。

 

 

(宗烈帝の晩年に関わったとされる「大紅袍」と呼ばれた男の存在は謎が多く、しかし、青霞妃や官吏の覚書など、複数の歴史的記録から確認することができ、彼が、皇帝から真の意味で大紅袍を与えられた歴史上最後の人物である可能性は高い。後世ではその制度は形骸化し、廃れている。)