空飛ぶ鷹が宝石を落とした日

“種子(しゅし)”を見たのは初めてではなかった。だが美鷂(メイアオ)が死んだ時、灰の中に佇むそれを俺は、初めて見たような気持ちになった。

他の同胞たちが遺したものとは全く違うものだったから。光っているのだ。強く。向こうの野山でも、闇夜だって、すぐに見つけられそうな光だ。空から降る星がここへ落ちたかのようだ。

 

美鷂の印(いん※)は針葉樹。甘い樹脂のような力強い芳香を持っていた。

散ってゆく灰は、その香りを冷たい風に纏わせながら舞う。葉のない木々の枝のあいだを通っていく。そうして輪郭を無くした美鷂は、世界と一体化してゆく。

俺は慌てて種子を拾い上げた。

掌におさまるほど小さく、菩提樹の実のようにでこぼこしている。質量を感じ、暖かい。内側から橙のような琥珀のような光が、頑丈な外殻を透かすほどに煌めいている。指の腹で撫でて転がすと、中の光もゆらめいた。この手に日輪(にちりん)を掴んだようなふしぎな感覚がした。

これが美鷂の“命”なのか。

 

背の遠くから、枯れ葉や枝を踏む乾いた音と、騒ぎ立てるいくつもの声がきこえた。こちらへ進んで来る。聖者の死を知った老師たちだろう。

俺は衝動的に、美鷂の種子を口元に運び、食らおうとした。

ゆっくりと、少し強めに歯を立てると、ギシ、と音が鳴る。

人型の使命を閉じたお前が、美しい樹木としての生を始める前に。聖者として死んだお前への、続く賛美を浴びる前に。美鷂の存在を俺が溶かして、消して、俺の犠牲の上に立っていたお前の聖母の偶像をいま全て、潰してやろうか。

 

心で強く叫んでも、それは俺の体を動かさなかった。

舌を、歯を、唇を離し、種子を掌中に戻した。

「せいせいした。お前が死んで俺は自由だ」

「俺にはなにもないと笑いながら蔑んだお前こそ、何のために生まれた?人間のためか?こんなふうに使い果たされて」

「これがお前の望みか、美鷂。俺には理解できねー奴だったな」

「いいんだ。もう死んだんだ。いねえ奴のことは、忘れちまおう…」

俺は未来の俺を救うための言葉を探した。それを声に乗せ、自分の耳に聴かせた。この衝撃を一日でも早く忘れるための薬のように。無駄だとわかっていても。

 

大嫌いだった。それなのに、怒らせることも傷付けることもできなかった。この最後のひと欠片でさえ、俺にはどうして遣ることもできない。他の誰かの手で守られ、土に還され、お前は俺の前から完璧にいなくなるのだ。

 

「そこにおるのは冥(ミイン)か!?」

駆け付けた老師のひとりにそう問われた俺は、立ち上がってぴんと背筋を伸ばした。

見渡せば、春の芽吹きを嘘にするほど、色も匂いもない冬の山だ。

虚しかった。悲しかった。怖かった。光を閉じ込めた掌が震えた。

 

美鷂。

どこにもやりたくなかった。

 

 

(※)山霊が持つ、目元にある模様。名叢はそこから強い香りを放つ。模様の意匠と香りは個体により違う。

 

 

 

冥の見解

俺たちは名叢(めいそう)と呼ばれている。

多くの山霊は、山の神が仙女の腹を介して産み出した者を起源に持つらしい。
名叢は違う。
俺たちに“親”はない。土中の木の根から発生し、分かたれて地上へ出る。「半樹擬人(はんじゅぎじん)」は、俺たちを正しく表した言葉だと思う。
俺も美鷂も同じ生き物だ。
しかし、俺の丹田(たんでん)にも、あの光る種子が入っているのだとは、どうしても想像できない。俺が見た中では、あれは美鷂だけが宿していたものだった。
そしておそらく、王(おう)であるウアンも、同じかそれ以上の種子を持っていると、俺は推測する。
そもそも種子とは、俺たち名叢の心臓部、核であると言われる。
名叢が各々の能力を使うための熱源が種子にあり、それが破壊されたり、もしくは体外に出てしまうと、俺たちは人型として在れない。すなわち死、だ。
これは当たり前の摂理として口伝されるもので、日は沈みまた昇る、花は咲きやがて枯れる…そういうものと同等に、誰も疑うことのない話。
だが証はない。
今は樹(き)となった同胞も、美鷂も、そうして死んでいったわけではない。俺たちに病はないが、寿命は存在するし、種子に限らず、肉体に深く傷を負えば死にもする。純粋な種子破壊で死んだ名叢を実際に見た、という前例はない。お伽噺(とぎばなし)なのだ。
もっとも美鷂の場合は、力を使いすぎて、種子の熱を急速に枯渇させてしまったため、死んだとされた。これは、俺が老師に直接聞いた言葉だ。
(ウアンも昔、同じような状態で死にかけたことがあるらしいから、状態としては起こり得るのだろう。)
それからだ。俺はあの口伝はおかしいと、ずっと思い続けている。
生命維持に必要な熱を使い果たし、命が終わった美鷂の種子は、あたたかく、生命力の塊のように光っていた。矛盾するだろう。
まだ何の確証もない、しかし俺が目で見て、肌で感じた違和感を語ろう。
あの種子は、俺たちに力を与えるものではない。逆だ。
種子が、美鷂の生命力を吸い尽くしたのではないか。あれは、俺たちのほんとうの意味での核ではなく、何か別の役割を持って、名叢の体内に鎮座する“異物”ではないか。俺はそう考えている。
人命を終えた名叢の種子は、厳重に管理され、然るべき時に大地に還されるもの。そうして樹命は始まる。
今その役目を担っているのはウアンだが、美鷂が死んだ時はまだ赤子だった。美鷂の種子は、老師たちと祭祀を司る助言者の手で、彼らが選んだ山の中腹に埋められたときいた。場所は知っている。
知っているだけだ。俺は立ち会わなかったし、一度も足を運んでいない。
 
幼馴染みでも、従者であっても、俺にはあいつの種子を自由にする権利などなかった。それが悔しくて情けなくて、俺はどうしようもなく落ちた。俺と美鷂のあいだにあった、甘くも優しくもない歪な鎖を、それでも絆だと、どうにか証(あか)そうとしていた自分に辟易した。
美鷂の樹がある場所に今もこれからも行かないのは、その樹を蹴り倒して、泣き出す自分を想像してしまうからだ。我ながら気持ち悪い。
他人の手に美鷂の種子を渡したあの日から、俺は祭祀には一切出ていない。日輪を避け、こんな谷底に住み始めて、30有余年が経つ。
ウアンは俺に言った。ほんとうは美鷂を愛していたのか?と。
答えの出せる話じゃない。美鷂がもういないからこそ、俺の恨みや憤りは、哀れみや愛に似たものに変わりつつあるのかもしれない。残された者にあるのは途方もない時間だけだ。諦めて、美化して生きていく。それでも、美鷂のことは忘れられそうにない。
ウアンもいつか、恋や愛ではない、大きく強い名もない感情を、身を以て知るだろう。俺の人生を語り諭しても、意味のないことだ。